「問い」と「発問」と「問題」はどう違うの?

― 質問に答えて ―

明治図書「数学教育 2011.7月号」の拙文 「問い」と「発問」と「問題」はどう違うの?』(PDFファイルです)

この文章について、お二人の方からご意見をいただきました。
それに答えたものです。線で囲った所が質問・意見です。
《Sさん》――――――――――――――――――――――――
教師の発問を生徒の「問い」にして理解に導く、という考えはよく分かりました。
また、人が思考するとは、成る程そういうことだったのかと今更にして分かりました。感謝です。
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 私の課題(テーマ)は、次の二つのことを追求することでした。

@「わかる」とはどういうことか?
A教師は発問をなぜするのか?

 それは、「考える」ということとは何をすることなのかと同値でした。教師の習性なのか、それとも一般的なことなのかわりませんが、私に限って言えば、「考える」ことは常に「問いかけ」から始まりました。自分自身に問いかけと思考が始まるのです。連想は全て妄想でしたから、考えることには入れませんでした。
 これは、受験体制も影響を与えているのかもしれませんが、どんな発問が良いのだろうかと考えている教師の習性が、普段の思考においても自分自身への発問が思考のスタートになっているのです。
 それから、発問とは何かと考えてみると、ほとんどが指示であり、説明であることに気がつきます。「比べなさい」「考えなさい」という指示が入っているのです。そして、「〜に注目すれば〜であることが説明できるよ」という説明も入っています。
 『「兵十がいなくなると、ごんはちょいといたずらをしたくなりました。」「ちょいといたずら」というのと「ちょっといたずら」というのは同じ?それとも違う?』
 こういう発問は、指示や説明を感じさせませんが、分析すれば「比べなさい」「考えなさい」という指示が暗黙のうちに含まれています。これを、もし命令口調でいうと、子ども達の自主的な思考につながりにくくなります。
 もう一つ、ここには対比をするという「指し示し」が含まれています。これは深い教材研究でしか生まれてきません。作者が「ちょっと」ではなく「ちょいと」という言葉を選んだのはなぜだろうという教師の疑問は、ここに注目させれば子どもたちの脳を揺さぶることができるということになり、そこを「指し示す」発問になったのです。
 このように、発問という形で教師が指示や提示をするのは、それを子どもの自主的な思考に転化したいと思っているからでしょう。
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 まず、全般的に思うこと。上村君は、「発問」「問い」を教師のするもの、生徒のするものと初めに分けて定義しているように見えますが、「問いかけ」という言葉も使われているので、やや混乱する。
 1ページの最後のところの
『内へ向かう言葉(内言)は自分への問いかけです。私たちは独り言を言いながら様々な思考をしています。自分自身に問いかけ、自分自身で答えています。この場合、「問う自己」は自己の中の他者です。つまり、考えるということは個人的な営みではありません。その他者の問いかけが発問であり、発問にはこの自己への問いかけ(内言)を育てる働きがあります。』
 このパラグラフからすると、「自分への問いかけ」ということは、「自分自身での発問」であるということか。このパラグラフの最後の一文の「他者への問いかけが発問であり」の他者とは自己の中の他者と読め、自己が発する発問と読めるがそうなのか、次の「発問にはこの自己への」の発問とは教師のする発問のことなのか、・・・とちょっと混乱する。
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 確かにこの部分は揺れています。自分の意識としては、この場合の他者は自己の中の他者ですから、教師の問いかけも含んでいます。自分自身の中の他者が自分自身に問うことが「考える」ということですから、教師の発問を限りなく子どもの中の他者の「問い」に転化していくという意味を含みます。
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 次に、2ページ冒頭の
《例1》 認識を深める発問
 『問いは、対象の同一性と相対的な差異を明らかにします。』

の「対象の同一性と相対的な差異」という表現は、いまいちわからん。一つ一つの単語は意味的には分かるがそれがつながって一つの概念となったときそれがわかりにくいのだ。例を見ても、式という言葉が共通? 関数、分数は 関と分が違う?・・といってもそれが同一性で差異・・・だから・・・??  で理解しがたかった。ここが一番難しかった。
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 「同一性と差異」についてですが、これは、「認識の深まり」と切っても切れません。例で上げた「卒業式と方程式」の違いは、宮沢賢治の授業の発問からヒントを得たものです。これについては、『46、卒業式 と 方程式  ――方程式と卒業式の関係を探る』に書いてあります。
 モノの認識はそのものと同じモノを見つけることによってより深まるということが「同一性」の発見。逆に同じようにみえるコトの間に違いを見つけることが「差異」の発見です。『90、差別と多様性と同一化・・・違うものの中に同一性を見つける  なぜ差別をするのか』を参照してください。

 ここには、『「わかる」ことは、すでに「わかっていること」とつながった時に現れる脳内現象である』という私の認識があります。私は、「わからないこと」と「わかっているモデル」とがつながった時、「わかる」が現れるととらえています。そのために、発問があり、したがって、発問はモデルを「指し示す」働きもします。
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 次に1の最後のところ
『また、内言をより豊かにする「多様な他者」と「ことば」を獲得することは大事なことです。「ことば」の獲得とは、式や図などでの表現を獲得することにあたります。』

の「ことば」の獲得の「ことば」とは、この場合、数学的思考のための「ことば」であって一般的に使われる「ことば」とは違う意味があるのですね。単純に言うならば言語学者などが言う「ことば」の獲得とは違うと言うことでしょうか。それだったらもう少し説明を書いた方がいいような気がする。
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 確かにそうですね。私のイメージとしては、記号は全て言葉ですから、この場合の「ことば」はイメージを持った記号(式や図も含む)です。ただ、そういう記号は全てイメージを持たないと、無意味なものになってしまいます。あの人が語った「ことば」がイメージを伴うからこそ、思考が始まります。
 ですから、ここでいう「ことば」とは、その人にとって意味をもったイメージを伴う記号ですね。
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 次に
《例6》 相対化させる問い (より広い世界を示した生徒の問い)
の下のところ対話はよく読むと分かるような、でも??と思うような不思議な対話ですね。
できればもう少し説明がほしかった。(でも紙数の関係でできなかったか)
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 これは禅問答です。子どもの言っていることを読みとることは、一種の禅問答を読み解くようなものだと感じています。  説明するつもりで、かえってわかりにくいものになっていることをお詫びします。これについては、『106、円錐の体積が円柱の1/3なのはなぜなのか・・・シンプソンの万能公式』を見てください。
《Yさん》――――――――――――――――――――――
@「認識を深める」・・・
 私は、「認識を定着させる」と言っています。使う場面が大切なのでは。あらかじめどのような発問が必要か、定着させたい事項の確認が必要だと思っています。
Aヴィゴツキーも言っていますが、認識の最近接領域のためには、集団性が必要です。考えさせるためには、集団の中にどのような発問を出して、つぶやきを取り上げ、集団で議論させることによって個人ではできない認識に高める。個々を考える必要があると思います。
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 Yさんは「認識を定着させる」といわれていましたが、「定着させる」という言葉に押し付けを感じてしまいます。間違っていたり、浅かったりはするけれど、子ども(私たち)は一定の認識を持っていて、それを深めていく方が、私にはぴったり来るのです。
@発問の工夫に関しては賛成です。
Aヴィゴツキーの「発達の最近接領域」は当たり前すぎて、あまり実践に役に立たないと感じてしまいました。ですから、「内言」の理論しか使っていません。「最近接領域」に関する私のイメージは、体育の先生が剣道部の生徒を見本にして剣道を教えるような場面です。
 最近、習熟度別授業の方が効果があるといわれます。これなどは教師の側が、この「発達の最近接領域」について自覚していないことと、子どもたちに「技」に対する憧れよりも、できるできない方にこだわるようになってきたことが大きな原因ではないかと感じています。

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