「問い」と「発問」と「問題」はどう違うの?
― 質問に答えて ―
明治図書「数学教育 2011.7月号」の拙文 『「問い」と「発問」と「問題」はどう違うの?』(PDFファイルです)《Sさん》――――――――――――――――――――――――私の課題(テーマ)は、次の二つのことを追求することでした。
教師の発問を生徒の「問い」にして理解に導く、という考えはよく分かりました。
また、人が思考するとは、成る程そういうことだったのかと今更にして分かりました。感謝です。
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―――――――――――――――――――――――――――確かにこの部分は揺れています。自分の意識としては、この場合の他者は自己の中の他者ですから、教師の問いかけも含んでいます。自分自身の中の他者が自分自身に問うことが「考える」ということですから、教師の発問を限りなく子どもの中の他者の「問い」に転化していくという意味を含みます。
まず、全般的に思うこと。上村君は、「発問」「問い」を教師のするもの、生徒のするものと初めに分けて定義しているように見えますが、「問いかけ」という言葉も使われているので、やや混乱する。
1ページの最後のところの
『内へ向かう言葉(内言)は自分への問いかけです。私たちは独り言を言いながら様々な思考をしています。自分自身に問いかけ、自分自身で答えています。この場合、「問う自己」は自己の中の他者です。つまり、考えるということは個人的な営みではありません。その他者の問いかけが発問であり、発問にはこの自己への問いかけ(内言)を育てる働きがあります。』
このパラグラフからすると、「自分への問いかけ」ということは、「自分自身での発問」であるということか。このパラグラフの最後の一文の「他者への問いかけが発問であり」の他者とは自己の中の他者と読め、自己が発する発問と読めるがそうなのか、次の「発問にはこの自己への」の発問とは教師のする発問のことなのか、・・・とちょっと混乱する。
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―――――――――――――――――――――――――――「同一性と差異」についてですが、これは、「認識の深まり」と切っても切れません。例で上げた「卒業式と方程式」の違いは、宮沢賢治の授業の発問からヒントを得たものです。これについては、『46、卒業式 と 方程式 ――方程式と卒業式の関係を探る』に書いてあります。
次に、2ページ冒頭の
《例1》 認識を深める発問
『問いは、対象の同一性と相対的な差異を明らかにします。』
の「対象の同一性と相対的な差異」という表現は、いまいちわからん。一つ一つの単語は意味的には分かるがそれがつながって一つの概念となったときそれがわかりにくいのだ。例を見ても、式という言葉が共通? 関数、分数は 関と分が違う?・・といってもそれが同一性で差異・・・だから・・・?? で理解しがたかった。ここが一番難しかった。
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―――――――――――――――――――――――――――確かにそうですね。私のイメージとしては、記号は全て言葉ですから、この場合の「ことば」はイメージを持った記号(式や図も含む)です。ただ、そういう記号は全てイメージを持たないと、無意味なものになってしまいます。あの人が語った「ことば」がイメージを伴うからこそ、思考が始まります。
次に1の最後のところ
『また、内言をより豊かにする「多様な他者」と「ことば」を獲得することは大事なことです。「ことば」の獲得とは、式や図などでの表現を獲得することにあたります。』
の「ことば」の獲得の「ことば」とは、この場合、数学的思考のための「ことば」であって一般的に使われる「ことば」とは違う意味があるのですね。単純に言うならば言語学者などが言う「ことば」の獲得とは違うと言うことでしょうか。それだったらもう少し説明を書いた方がいいような気がする。
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―――――――――――――――――――――――――――これは禅問答です。子どもの言っていることを読みとることは、一種の禅問答を読み解くようなものだと感じています。 説明するつもりで、かえってわかりにくいものになっていることをお詫びします。これについては、『106、円錐の体積が円柱の1/3なのはなぜなのか・・・シンプソンの万能公式』を見てください。
次に
《例6》 相対化させる問い (より広い世界を示した生徒の問い)
の下のところ対話はよく読むと分かるような、でも??と思うような不思議な対話ですね。
できればもう少し説明がほしかった。(でも紙数の関係でできなかったか)
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《Yさん》――――――――――――――――――――――Yさんは「認識を定着させる」といわれていましたが、「定着させる」という言葉に押し付けを感じてしまいます。間違っていたり、浅かったりはするけれど、子ども(私たち)は一定の認識を持っていて、それを深めていく方が、私にはぴったり来るのです。
@「認識を深める」・・・
私は、「認識を定着させる」と言っています。使う場面が大切なのでは。あらかじめどのような発問が必要か、定着させたい事項の確認が必要だと思っています。
Aヴィゴツキーも言っていますが、認識の最近接領域のためには、集団性が必要です。考えさせるためには、集団の中にどのような発問を出して、つぶやきを取り上げ、集団で議論させることによって個人ではできない認識に高める。個々を考える必要があると思います。
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