「人間的自然の理性化」 から 「数学の人間的自然化」へ
1、数学は必要?
体育祭の練習を休んでいたNさんに話しかけていたら、突然「先生、数学って必要なの?」と話し始めた。今まで何度こう尋ねられたことだろう。大抵、高校へ行きたいと考えている子には、「高校へ入るために必要だよ。」と答えるし、就職しようとしている子で数学が苦手な子には、「+−×÷ができればりっぱに生きていける。」と答えてきた。こういう質問をする子は、数学が苦手で苦しんでいる子が多い。だから、その苦しみから少しでも自由になるほうが幸せだと思うからだ。
ところが、この時はこう答えてしまった。「数学を必要と思えば必要だし、必要と思わなければ必要ではないよ。」「・・・」「例えば、お金は生きていくために必要?テレビは生きていくために必要?コンビニは生きていくために絶対必要?必要と思わなければ、なくっても生きていけるだろ。だって、昔からあったわけでもないし。数学も同じ。でも、必要と思えばこれほど必要なものもない。数学も同じ。」「コンビニは必要なんだけどな。」と彼女は納得したとはいいがたい様子。でも、「君の持っている携帯電話は数学の塊だよ、君のよく聞く音楽の入ったCDも数学だよ。」と、言うのはやめにした。数学が『自分自身の数学』とならない限り、つながらないと感じたからだ。
映画「たそがれ清兵衛」を見ていたら、こんな場面があった。
「針仕事は役立つが、学問は役立つんだろうか?」
と、内職を手伝いながら論語を暗誦していた10歳の娘が問う。清兵衛は戸惑いながらこう答える。
「針仕事のほうが金にはなる。でも、これからの世の中はどうなるのかわからん。そういう世の中を生きていくためには考える力が必要だ。学問は考える力をつけるんだ。だから学問をするんだ。」
針仕事よりも学問の方が必要ということではない。世の中がどうなるかわからないということも前提だろう。そして、貧しい生活をしているからこそ、この問と答えは意味を持ってくる。ここでは、学問=論語=考える力=生き方となっている。(でも、論語を学ぶことと考える力をつけることと、清兵衛の生き方がつながっているのだろうか。)
2、学校化社会
数学でも、よく「考える力」をつけるということが強調される。そして、「考える力」をつけることは、たいてい学校の課題となっている。では、学校は考える力をつけているのだろうか。
イリイチの「脱学校化社会」のなかに、こんなことが書かれていた。
『学校は、生徒に目的を実現する過程と目的とを混同させる。過程と目的の区別があいまいになると、新しい論理が取り入れられる。手をかければかけるほど、よい結果が得られるとか、段階的に増やしていけばいつか成功するといった論理である。このような論理で「学校化」されると、生徒は教授されることと学習することを混同するようになる。
例えば、
進級する=教育をうけたこと (進級したことは本当に教育を受けたことになるのだろうか)
免状=能力 (免状を持っていることは本当に能力があるということなのだろうか)
よどみなく話す=何か新しいことを言う能力 (よどみなく話すから、何か新しいことを話す能力があるといえるのか)
点数=真理 (学ぶことは点数を取ることか。テストの点数こそが真理、点数を取ることが目標になる)
このことはさらに、価値の代わりに制度によるサービスへと転化する。
警察の保護=安全 (警察の保護は、本当に安全を保障するのだろうか)
医者の治療=健康 (医者の治療は、本当に健康をもたらすのだろうか)
社会福祉事業=社会生活の改善 (社会福祉事業は、本当に社会生活を改善しているのだろうか)
武力の均衡(拡大)=国の安全 (武力の均衡(拡大)は、本当に国の安全につながっているのだろうか)
あくせく働くこと=生産活動 (あくせく働いていても、本当に何か大事なことを生み出しているのだろうか)』
これがイリイチのいう学校化社会の例である。必要だと考えて「合理的」に追求していると、いつの間にか手段が目的に変化してしまうということがある。例えば、「細かい指導計画や目標、細かい観点別の評価基準を立てれば、いい授業ができる」など、単純に考えてもおかしなことが学校にはある。また、「考える力」=「〜できること」と定式化することなどは、過程と目的の混同に陥っているといってもいいだろう。しかも、作為的にこの様にしようとしているわけではない。むしろ合理的に考えようとしていてこのようになるのだ。では、なぜ過程・手段が目的になってしまうのだろうか。
3、自然の理性化(数学化と理念化)
数学で「考える力」というのは、「自然を数学化する力」である。このことをもっと「考えて」みよう。
人類は、様々な出来事を抽象化し一般化することで、概念や法則をつくりあげてきた。例えば、三角形。おにぎり・トライアングル・三輪車・三角定規・ノートに描いた三本の直線等は、一般的に三角形として認識される。でも、これらは三角形ではない。数学で定義された三角形は、この世界のどこにもない。つまり、三角形は、脳の中で具体的なものを抽象化してできた理念なのである。
このように、私たち人類は、自然を数学化(理念化)することで新たな理念を脳の中で実体化してきた。数学の概念はすべて脳の中の理念といってもよい。そうやって、人類は自然を数学化し、それによって自然を理解し、自然を組み替えてきた。(これは一般化することだから、応用範囲がひろい。だから様々な事に当てはめることができる。数学の特質。)
数はその最たるものである。もともと、2という数にも、2個、2人、2m、2g、・・・という実体があった。そういった様々な実体を忘れることで、2という新たな実体(理念)が生まれた。(2個の物に反応する脳細胞がある。それが2というクオリアを生み出し、それを2と名づける。つまり脳には元々抽象化し一般化する働きがある。)
同様に、公式もそうである。公式は数学化(抽象化と一般化)によって生み出された。そして、公式は使わなければ意味がない。でも、公式を覚えることが数学かというと違う。公式を使うことが数学か、というと違うような気がする。公式の当てはめには、考える(創造する=数学化する)ことはない。つまり、公式を創りだしてしまえば、考える力は必要でなくなってしまうのだ。そしてやがて、実体を当てはめることすらも形式化してしまう。(だから便利ともいえるが。)
つまり、自然の数学(理性)化には、つくり出したものを使ったり、教え込も(啓蒙しよ)うとして、形式化におちいる傾向があるようなのだ。この形式化が過程や手段を目的にしてしまう。人間が失敗を犯すのもこの形式化にあるのではないだろうか。
この点について、ホルクハイマーらフランクフルト学派は次のように分析している。
4、「内なる自然の理性化=形成化」
『理性は、本来的には人間が目指すものについて、問いかけたり批判したり確認したりする精神のはず。しかし、「道具的理性」は、いわば自然を支配しようとするときの手段でしかない。人類は、理性によって「外なる自然」の支配はできたが、同時に「内なる自然」、つまり人間の感情とか衝動とか、そういうものまで支配するようになってしまった。
そして、その支配する力がどんどん強くなると、支配することそのものが目的となった社会が築かれ、人間を画一的に管理してしまう。そのとき、「内なる自然」と離れてしまった自我は、自分の生きることの意味や目的を見失ってしまって、ただそこに存在するだけのものに変わってしまう。
自然を支配することで主体性を確立し、文明化が進んだように見えて、実はそのことで、人間は非人間化され、文明は野蛮化した。ナチスの野蛮な行いは、この主張の現実となったものであると。』【現代思想の流れ】
このことを数学教育で考えると、どのようになるか。
『「教育(啓蒙)」がすすみ、合理化されることにより、人間は考えることをやめてしまった。例えば、学校では公式を覚えさせられる。なぜそのような公式になり、それがどのような数値を意味するのか、ということを考えずにただ問題を解くという生徒(学者)は少なくない。与えられたモデルを何の疑いもなく、その表象する意味すら考えることをしなくなった。公式にしてしまうことによって、概念を考える必要性がなくなった。「教育(啓蒙)」は計算可能性や有用性を基準として、そこから疑わしいものは排除する。だからこそ、わかったものはわかったもので公式化し、わからないものは考えることすらせず放棄する。概念や真理といったものに理由を求めなくなる。このようにして、未知から来る恐怖は「モデル化、公式化」によって回避されたこととした。』【啓蒙の弁証法】(ここでの「教育」は、「啓蒙的な教育」または、「形成的な教育」とした。また、「公式化」は「公式を作り出し、現象をとらえようとすること」ではなく、「公式にして、当てはめようとすること」。)
このことは、現実に教室の中で起きている。「先生、理由はいいから、公式を教えてよ。」と、じっくり考えようとしない子どもたちが増えてきている。教師も公式に当てはめることや、計算ができれば良いという教え方をしている。また、子どもたちにマジックなどを見せると、不思議がるが、自分なりの理由を思いついたら(たとえ間違っていても)、考えることをやめる。または、勝手に解釈して考えることをやめる。これをいつまでも悩んでいるのは大変であるが、重要なことを考えない傾向はもっと問題である。
では、私たちはどうすればいいのか。
『彼ら(フランクフルト学派)は、「批判的理性」を持ち続けなければならないと主張した。自分たちが管理されていたり抑圧されていることに対して、それに気づき、それではいけないと思う気持ち。そして、道具的理性を巧みに利用する社会への批判。さらには、理性を信頼し、進歩を確信する近代的な信念をも批判することで、人間はいかにあるべきかを追い求めていった。』【現代思想の流れ】
5、「理性の人間的自然化=内なる自然(感情・衝動・無意識)の再認識」
もともと科学は自然を知ることにあった。自然の合理性は神の合理性に比せられ、自然をより知ることは、神に近づくことであった。ところが、近代になり、理性が重要視されるようになってくると、人間性を理性化することが目標になる。そして、先ほどのような学校化がおき、あらゆることの理念化がなされている。「教育」が「形成」へと化すことも生じてくる。
竹内常一氏は、【時代は動く!どうする算数・数学教育】で、このことを次のように表現している。
『学校教育は「ヒューマンネーチャー」を限りなく理性化してきた。そのつけが、ここにきて、「ヒューマンネーチャー」のネーチャーの爆発として現れている。教育とは「人間的自然の理性化」ではない。むしろ「理性の人間的自然化」なんだ。当時の科学主義は「人間的自然の理性化」論だった。だから、限りなくサイボーグづくりの方向に走っていた。それは体力でも同じで、マラソン選手は前に走る筋骨系統しか発達しなくて、バスケットをすると骨が折れるというところまでいっている。それに対して、「理性の人間的自然化」は理性をヒューマンネイチャーの中に埋め込んでいく、そうしない限り人間的自然は守れない。野性の世界を確保しておかないと創造性が育たない。野性性は、今や、いじめや殺しに表れている。「ヒューマンネーチャー」は人類が三大宗教をつくらねばならないほどに恐ろしいもの。そういうことを踏まえたヒューマニズム。人間の身体は罪深いからこそ、いとおしさをもって接しないといけない。民主教育も含めて啓蒙的な教育は、人間性を解放しようとするあまりに、本当の人間性の怖さを見落としてきた。』
科学的思考は、自然から一般法則を導き出す思考である。そこには創造的な思考があるのだが、ここで問題なのはそれを啓蒙しようとする働き(啓蒙的な教育)の方である。人間や社会を合理的にするというあまり、人間や社会を理性化しようという啓蒙(形成的な教育)のスローガンが問題なのだ。だから、その逆の「理性の人間的自然化を」という教育のスローガンに魅力を感じる。でも、この具体的なイメージはなんだろう?
人間は間違いを犯す。思い込みも多々ある。そういう意味ではどうしょうもない存在である。私などは、そういう存在に嫌気が差し、数学の中にある合理性や理性に憧れた。そして、啓蒙的になっていき、行き詰った。でも、逆に「理性の人間的自然化」というと、それはどうすることなんだろうか。
6、「理性の人間的自然化=教育」
ここで、理性を持っているといわれる人間の脳の特質について調べてみよう。
脳(意識)は、もともと物事を一般化する働きを持っている。演繹(法)をやるようにはできていない。脳は周りを解釈をするだけなのだ。自然の中の数少ない数例の中から、ルールを見つけてそれを一般化し、自然はこうなっているのかと解釈するだけなのだ。つまり、脳のやり方は帰納法と言ってもよい。
そして、一般化のために有利な方法が、抽象化である。そして、ものごとを個別に考えるのではなくて、「これらを結びつけるものは何だろう」という抽象的な考え方ができるからこそ、脳は一般化ができる。
また、抽象的な考え方ができれば、一般化が得意になる。そして、一般化によってルールを知れば、新しい状況・環境になっても応用が利く。人間が他の動物に比べて、著しく応用力が高いのは抽象的な思考ができるからで、脳が一般化の働きを持っているのは、進化の過程で得てきた特質といえるし、それがあったから脳が進化したともいえる。(【進化しすぎた脳】より)
ところで、抽象的な思考ができるのは言葉を持っているからである。つまり、言葉は信号を伝達するためだけじゃなく、考えるための道具でもある。まとめると、私たちの脳(意識)の働きは、言葉を使い抽象化して事物を一般化しているだけということになる。 とすると、先ほどの「公式に当てはめること」は、人間の脳の働きに逆らっていることになる。いや、公式を暗記し、適当に公式に当てはめれば答えが出るということを一般化しているだけなのだ。
さて次は、理性に対するものとしてとらえられている感情について調べてみよう。私たちは、脳が身体を支配していると思っているし、意識が身体を支配していると考えている。ところが、脳が身体を支配しているのではなく、身体が脳を主体的にコントロールしているということがわかってきた(身体と脳は一体)。(【進化しすぎた脳】より)
例えば、感情(扁桃体)は、意識(大脳前頭葉)がコントロールすることはできない。見ること(視床下部)も意識がコントロールしているのではない。感情を理性でコントロールできると思っているのは、間違いなのだ。無意識の世界を、意識がコントロールすることはできない。怒りの感情を押さえつけることはできない。フロイドは、無意識をコントロールしようとしたのではない。とすると、感情をコントロールできるようにするという「教育」は、形成の教育におちいってしまうことは容易にわかる。
カウンセリングも、話すから昇華できるのではない。もしそうなら、話す相手は誰でも良いということになる。相手がいて、この人に聞いてもらいたいと考えるからカウンセリングが成立し、話した後は新しい関係性(空間)が出現する。だから、感情を理性でコントロールするのではなく、感情を、誰に対して、どう表現するかということが大切になる。そして、周りにわかってもらう。これが形成的でもなく、啓蒙的でもない教育なのだ。
最近は、脳科学が発達してきて、薬によって感情をコントロールできるようになってきたといわれる。でも、人間の感情は、その人を取り巻く関係性が大きく作用している。この場合の一般化は、その人の関係性を探り出し、問題点や課題を分析し、その人に働きかけていくことだ。一般的な症例に当てはめることではない。そして、それでしか教育はできない。(もちろん薬を使う場合もあるが、それは理性の人間的自然化のために。)
7、算数・数学の人間化
ここで、理性の人間化を数学に置き換えると、「数学の人間化」を考えることができる。私は、数学を理解しようとして、まったく絶望的な気持におちいったことが何度もあった。そのときは、自分自身の脳の理解力を呪ったものだが、最近次のような文章に出会って、脳内にドーパミンが一気にあふれ出すのを感じた。
『数学で言えば、そもそも具体から抽象へは行けるが、抽象から具体へは行けない(行こうとしてはいけない)。それは、数学という抽象世界に絡めとられて、日常世界に帰って来られなくなるから。また、いきなり抽象世界に飛び込んだら、日常世界とのつながりが切れてしまう。そうなったら最後、法則・概念は理解できても、それを活かせなくなる。
大切なのは、日常世界から抽象世界へ上がっていくという道筋である。現実に起こった失敗事例をもとに考察を重ねて、何らかの法則・概念に押し上げていく、そういう作業をして初めて、法則・概念は活かせる。』【直感でわかる数学】
ここには、最初に提示した「考える力」が、明確に示されている。自然から特徴・要素をそぎ落とし抽象化して、構造を明らかにし、同じ構造に一般化する。そして、それを総合化して法則・概念にまで高めること。これこそが、「考える力」なのである。そして、「理性の自然化=内なる自然(感情・衝動・無意識のテンプレート)の再認識。」なのである。(この場合のテンプレートは、【モデル】にあたる。)
つまり、法則をつくりあげることでしか、(自然は・数学は)理解できないし、活かすことはできない。そして、「理性の自然化」とは、意識化にあるテンプレート(その人なりの考えの脈絡)をつくることと、そのテンプレートを探すことにあたる。ここでは、考えることは、考えや概念を作り上げる過程なのである。
でも、数学は演繹法を使う。まず、定義があって、定理があって、法則があって、証明がある。そして導かれた命題は常に正しいとなる。でも、人間の脳はそんなことはできない。だって、脳は解釈するだけで、数例の中からルールを見つけて、一般化するだけ。だから、私は数学が理解できなかったのだ。
では、抽象から具体へは行けないのか。やれないことはないし、実際に学校ではほとんど行われている。でも、それをすると、人間は考えることをやめてしまう。人間の脳は演繹はできないようになっているのだから。
そして、「わかる・納得する」という過程は、自然に自らの脳の中に組み込まれているのに、理性化によってそれを奪われている。とすると、「現実・実態から出発し、事象を概念・法則まで高めるスキル(一般化のスキル)」を身に付けることが必要となる。でも、本来人間にはこのスキルは、自然に組み込まれているはずなのだ。もしかしたら、この点が今一番問題なのかもしれない。人間的自然の理性化によって、本来組み込まれていた「一般化のスキル」が奪われてしまったのかもしれない。
8、ゴミ袋の折りたたみ
あるとき、ビニールの買い物袋が、きれいに三角形に折りたたまれコンパクトになっているのを見た。それは、最後のあまりをつめてきれいに正三角形になっていた。どうして正三角形ができたんだろう。拡げてみると、正三角形になるのは当然。これは正三角形の性質を見事に利用している。では、これを考えた人は数学を使ったんだろうか。正三角形の性質を知っているからといって、演繹法でこんな発想はできないだろう。これは実践知と理論知の違いかもしれない。いずれにしても、正三角形を理念化したからといって、こういう発想の買い物袋のたたみ方が出てくるということはない。実際に買い物袋を手にとっていろいろやってみないとダメなのだ。(実は、私もそれを見て、数学で解釈しただけなのだ。)
もう一つ、運動感覚によって空間意識が形成されるという実験がある。生まれたばかりのまだ目が見えない猫を籠に縛り付け、様々なものを見せても猫の目は見えるようにならないという実験である。身体を動かすことによって空間を認識し、それを理念化して幾何学を創りあげているとしたら、身体が数学をしているといってもいい。手を動かし、身体を使って数学をすることも、理性の自然化と言っても良い。でも、この身体の方が最近は怪しくなってきている。
学校のお茶飲みの部屋に、こんな言葉が掲げてあった。
『 道
道はじぶんでつくる/道は自分でひらく/人のつくったものはじぶんの道にはならない. みつを』
今までのことは、学べば学ぶほど「痩せるような数学」と、「豊かな数学」というイメージの方がわかりやすいだろうか。先のNさんは、学べば学ぶほど痩せていくような数学を教え込まれているのだろう(教えているのは私である)。自分が惨めになる数学ではなくて、豊かな表情を持った数学を学ばせることはできないものだろうか。
私は今、「現実・実態から出発し、概念・法則まで高める」ことでしか、現実を理解できないし、そうやって発見した法則でないと使うことはできないのだという言葉を出発点とし、啓蒙や形成の教育から、数学(理性)の人間化への教育を目指していくしかないと思っている。
参考文献【時代は動く!どうする算数・数学教育・国土社】【教育への構図・高文研・竹内常一著】【直感でわかる数学・畑村洋太郎著】【進化しすぎた脳・朝日出版社・池谷裕二著】『 』内は引用。