%8 【神の存在証明】
『証明とキリスト教とヨーロッパ文明』
数学の証明というと難しいと考えている人は多いね。証明とは簡単にいえば説明なんだ。ただし、その説明によって大勢の人が納得しないと、本当の証明とは言えない。
・・おれはいつも納得していないよ。
こういう証明は、日本や中国では発達しなかった。ギリシャやヨーロッパで発展したものだ。では、なぜヨーロッパで発展したのだろうか。気になったから調べてみたんだ。それでわかったのが、キリスト教との関係なんだ。
・・アーメンという宗教?
そう。ところで、神様っていると思うかい。
・・いると思う。(約2:約3=いる:いない)
じゃ、その事を証明できる?
・・そんなの無理だよ。
ところがだ、それを証明しようとした人達がいるんだ。
・・それも数学者なの。
当時は数学者という職業はなかった。この人達はキリスト教の神父さんや哲学者ですね。
アンセルムス
(1033-1109) イタリア
神の存在を理性的に証明できるとした初めての人。
神の存在の本体論(存在論)的証明
(1) 存在が在る以上、最高の存在がなければならぬはず。
∵ 存在はそれ自身を存在させるものを必要とするから。
(2) 最高の存在は、自らの内に存在をも含む。
∵ 最高の存在とは自分の存在を規定する。
(3) したがって、最高の存在、神は存在する。
・・何を言おうとしているのかさっぱり分からん。
例えば、ここに本があるのはなぜかというと、本の素の木があり、木から本を作った人がいるから。では、その木や人はなぜ存在するかというと、木の先祖や母親がいたからというようにさかのぼっていくと、結局一番最初の存在である神を考えざるをえないということですね。
・・一番最初に木や人間を創ったものが必ずいるということですね。
・・最初の存在=最高の存在=神 ということか。
・・別の事で質問があるのですが、神様って一人なんですか。
いい質問ですね。神様は一人なのか、それとも二人なのか、もっと大勢いるのか、証明してみよう。
・・そんなこと証明できるんですか。
まず、アンセルムスによると、神とは最高の存在なのだから…
・・最高が2人いてはおかしい。
その通り、最高の存在が2人だと仮定しよう。そのどちらが最高の存在であるのか問題となる。たとえば、一方を最高の存在だとすると一方は神ではなくなるし、両方とも最高の存在であるというのは、最高という概念に矛盾する。したがって、神は一人であるといえる。
・・日本の神様は沢山いるんじゃないの。
日本の神様は、人間臭く「最高の存在」とは言えないね。これは一神教と多神教の違いだ。一神教は、上の証明のように根本の原理を考えるから合理的に考える。だから、科学の素になったともいえる。
・・日本ではどうして証明がなかったんですか。
宇宙は一つの原因によって一つの結果がでてくるといった単純なものではなく、多くの原因によって多くの結果がでてくる複雑な世界で、ものごとを見たままにとらえようとする傾向があったからではないかぁ。
トマス=アクイナス(1225ー1274)
イタリア
神の存在のそれまでの証明を定式化した人。
創造論的証明
(1) 動いている物はそれを動かす原因がある。
(2) 宇宙は動いている。宇宙を最初に動かしたものがあるはずである。
(3) それが、神であり、よって神は存在する。
(参考文献 平凡社世界大百科事典)
これはむしろ証明というより、神の定義を厳密に考察したというべきかな。
・・何となく分かるような気がするよ。
・・宇宙を、最初に動かしたのが神様ということですね。
・・すると、神様は最初に動かしただけ? その後は何もしていないの?
・・動かし続けているんじゃないの。
・・地球は万有引力の法則で動いているんだから、何もしていないよ。神様は最初にこの法則を創り、それから動かしたんだ。あとは遊んでいるだけ。
デカルト(1596-1650) フランス
神の存在の合理主義的証明
(1) 我々人間は不完全な存在である。
(2) その完全でない人間が完全なるものの(神の)存在を認識できる。
(3) それは、完全なる神が存在するからである。
”三角形の観念の内には、その和が180度に等しい3つの内角を有することを承認せざるを得ないように、最も完全な実有(神)というものの観念の内に必然的にして永遠な存在が含まれていることを知覚するということだけから、最も完全な実有(神)が存在することが結論されざるを得ない。”
(参考文献 哲学の原理・・人間的認識の原理について) 【デカルトの解析幾何学】
彼は数学で学問を統一するという計画を立て生涯をかけた人なんだ。ちなみに、不完全である人間の存在は、「我思うゆえに我有り」という意識による自己の存在証明からおこなっている。
・・でもさ、完全なる神がどうして不完全な人間を創ったんだろう? もし、完全だったら作るものも完全なはずだろう。不完全なものしか作れなかったら、神様は完全ではないということじゃないか。
パスカル(1623-1662) フランス
神の存在の実在論的証明(確率論的証明)
(1) 神が存在するか、しないかは、確率から言えば二分の一。
(2) 神が存在しないとすると、その利益は0。存在すれば、その利益は∞。
(3) その時の期待値は、存在する方は、0.5×∞=∞、存在しない方は、0.5×0=0となり、したがって私は、存在する方に賭ける。
(参考文献 パンセ)【・パスカルの三角形 ・ パスカルの定理 ジオジェブラで図を動かすことができます】
なぜ、存在する方に賭けるのかがわかりますか。
・・神様がいた方が得だということでしょう。
・・本当に得なのかなあ。
・・神様は最初だけではなく、いつもいて信ずる人間に利益を与えているからじゃない。
・・賞金の多い方に、賭けるということだな。
・・証明じゃないみたい。
パスカルは、神の力は時々刻々今も働き続け、偏在していると考えていたのです。そして、罪ある人間が救われるのは、神の愛によるもので、神を信じた時、我々はすでに神の救いの内にあると信じていたのです。
ところで、この期待値の考えは現代を考える上でも、とても重要なのです。例えば、原子力発電所の事故を考える際に最も重要な概念が期待値なのです。原発の事故はその確率で議論されます。そして、その事故確率は極めて少ないとされていて、二万年に一回ぐらいしかないから安全だとされています。(現実には起こっていますが)
この原発事故の場合に、確率だけでなく事故期待値を考えたらどうなるのでしょうか。
(事故期待値)=(事故の起こる確率)×(事故による被害額)となります。
1000メガワットの原発が炉心溶融事故を起こした時に、強い放射能を持った核分裂生成物が15〜30kg放出され、これは広島原爆の24〜40発が炸裂した際に放出する放射性物質全量に匹敵するそうです。とすると、被害総額は現状復帰の費用も含めるとまさに無限大となるのです。そして、事故期待値は無限大となります。これは神の存在の証明とは全く逆の結果になります。
(1999.12 時代は動く どうする算数・数学教育 国土社 より)
スピノザ(1632-1677) オランダ
理神論的証明
(1) 定義
神とは、全ての物の究極原因で、自らはなんらの原因のもたない存在者である。
(2) 定理
自らにおいて存在し、自らによって解され、絶対無限の実有である神は唯一である。
(3) 定理
自然における万物は、神あるいは属性の表われであり、神=自然である。
彼は定義の中に本質があり、そこから神の存在も言えると考えた。
”神は万物を自由意志によって生ずるのでなく、自己本来の法則にしたがって必然的に生ずるのである。ちょうど、三角形の本質(定義)からその内角の和が180度に等しいということが必然的にでてくるのと同じである。”
(参考文献 エチカ) ・エチカ第二部 ・スピノザについてのメモ
・・デカルトの説明と良く似ている。両方とも三角形を使っているよ。
スピノザはデカルトの影響を受けているから、数学の方法を使って彼の哲学をつくりあげたんだ。
・・神様は、僕達みたいに勝手に思いつくまま何かをしているのではなく、法則にしたがっているということか。つまり、自然の法則を探ることは神様の仕事を探っていくことと同じなんだね。
・・すると、法則=神ということにならない?
・・そんなら、法則さえあれば別に神様なんて考える必要はなくなるじゃん。
そうなんだ。スピノザは神を信じていたけれど、彼の哲学から無神論が出てくる。
いずれにしても、証明が日本や中国には発達しなかったわけも想像できるね。ヨーロッパで科学が発達しえたのも、こういう風土が大きく影響していることは間違いない。
・・まいったなあ。こんな神がいるのかいないのかまで証明しようとする連中の文化を、日本に持込んで僕たちに証明をさせようとするのは、無理があるんじゃないのかなあ。
・・でも、キリスト教の影響を受けた証明(科学)が日本や世界で広まったのはどうしてなんですか?
うーん!それは良い質問だ。科学は神の創造の仕事をたたえるために始まった。ケプラーは惑星の運動の法則を見つけることで、神のすばらしい宇宙創造の仕事を明らかにしたと考えた。つまり神の存在証明だったんだ。ところが、そういった法則が次から次へと見つかっていく中で、スピノザのような「神=自然」の考えが出てきて、やがて自然の中に現れている秩序の追求(法則の発見)だけが科学になっていったんだ。だからキリスト教以外の人々にも広がったといえる。
その外にも、自然環境や経済、技術、人口の問題などなどいろいろなことが影響していると思うけど、それはみんなで調べてみようよ。
参考文献(新しい科学論:村上陽一郎)