宮川五平次畧伝

郡上の和算の歴史

八幡神社の算額の作者、神谷直縄と宮川孟弼についての調査

 以前書いた「美濃飛騨の国の和算の歴史」では、 八幡神社の算額の作者神谷直縄と宮川孟弼をそれぞれ僧忍澄と浅野孝光に当てていた。

 忍澄のいた寺について、現在の様子を知らせていただいた方がいて、再度忍澄を調べようと思い、 海津郡吉里村鹿野緑林寺まで訪ねて行った。 現在のご住職は本山の宗務総長を退職されたばかりの方だったけど、幸いにご在宅でお話を伺うことができた。 ただ、当時の資料は残っていないということ。本堂にお参りして帰った。

 当時はネットでいろいろ調べてもわからなかったが、それは調べ方が下手だったからだ。再度検索してみると、 林鶴一先生の書かれたものがあり、そこに二人の名前があった。

1、 北陸道ノ和算家ニ就テ(1) - J-Stage

林鶴一先生の論文には、「37、高木充胤、神谷直縄」があり、そこを見ると、宮川孟弼は美濃にこの流派を広めたとある。
したがって、神谷は北陸の人らしい。

2、もう一つの、「 甲相駿遠三及ビ尾濃勢ノ和算家ニ就テ

に書いてある宮川についての記事は美濃八十町の人というのは、美濃八幡町の間違いではないかという気がしてくる。
さらに、名前「孟弼」だけで検索していたら引っかかったのがこれ。

3、日本古典作者事典  その中の「 た 」で発見。

O2641 孟弼(たけすけ・宮川みやがわ、通称;紙屋五平治)?ー? 江戸後期美濃八十町の和算家;高木允胤(みつたね)門、「重利法」「測量地秘録諺解」、「算法点竄術軽一百問」校訂 と書いてある。

4、次は、紙屋五平治と宮川五平治で調べる。

どちらもヒット。やはり八幡町の人。明治になって養蚕についての本や政府への申上書を書いている。 その本も印刷して読んでみた。

次に、大乗寺の高橋教雄先生に宮川孟弼と神谷直縄について質問をした。
宮川はやはり紙屋五平治、神谷は郡上藩の藩士あった。 宮川の墓は大乗寺に、神谷の墓は川合にあるということ。

宮川五平治について今までに書いたもの

「はまぐりの数学」153、美濃・飛騨の国の和算の歴史 ・・算額の問題に挑戦しよう(2014.8)

ブログ「宮川孟弼」について

仮字格便覧/宮川五平治編 宮川甚七郎,明18.4

5、さらにネットで調べていたら、石川県立図書館に宮川五平治の子息の述べた略歴の記録があるとわかる。

 石川県立図書館

  関口文庫 江戸時代の和算関係刊本写本45冊。※関口開(1841-84)数学者
  田中文庫 江戸時代の和算天文関係文献400点。※田中【オノ】吉(1861-1945)元旧制第四高等学校教授郷土数学史の研究家

 田中文庫(郷土数学史の研究家田中【おの】吉旧蔵書)[PDF]

 さっそく電話。しかし貴重な資料なのでコピーはできないという。 直接来て写真に撮ってほしいということ。
 金沢まで行く機会を作ることができなかったが、一年後に息子夫婦と一緒に行くことになり、写真撮影も前もって申し込んで撮影してきた。

 ネットに載せることの石川県立図書館の許可書が昨日届いた。 資料名「宮川五平治畧傳」石川県立図書館 田中文庫所蔵



とてもきれいな字で書いてある。息子さんの口述を田中氏が筆記したもの。
  

宮川五平治畧傳

『姓を宮川家に享け名を五平治と称す。実名は孟弼、雅號、石斎と呼ぶ。 中興四代目の主たり。文政七年十一月二十五日を以て美濃国郡上郡八幡町に生る。 多賀神社氏子として幼名を良助と命名す。齢八才にして父を亡い、母すわ(当時三十六才) の手に人と成る。 天保五年十一才にて隣郡関町なる羽渕先生の塾に入り、四ケ年間文学、数学、諸礼式修業。 天保九年十五才にて義兄大野春彦と供に隣郡美濃町(旧有知町)河村忠右衛門内御大人の門 に入り、和語、歌道を修む。
弘化度算学専門の名家、関流七伝越中富山市の人高木吉兵衛充胤先生を自宅に招聘して、 親しく和算の教授を受け、弘化五年二十五才にして全科を卒業し、皆伝免許を受くるに至れり。 尓来多くの門弟を集め広く教授すること十数年に及べり。
平素風雅の道を嗜み、連俳に心を寄せ、且つ篆刻を好めり。特に和語仮名遣いの調査に心力を 尽くし、終に明治十五年五月に到り稿成素志一貫するを得たり。依て其筋の版権を得て出版せり。 即ち該書折本一部を添ふ。
累代以下畧す。
明治二十三年七月二十三日病没す。 享年六十五年九ヶ月
  大正四年六月 岐阜県郡上郡八幡町
          宮川孟茂 誌 』


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