構造読み
文学作品を読む・・・文学作品の構造読み
最初に短歌・俳句を読んだ。句切りを教え、一茶の「ゆうぜんとして山を見る蛙哉」はどこで区切るのかを論争した。「ゆうぜんとして、山を見る、蛙哉」と「ゆうぜんと、して山を見る、蛙哉」の二つに分かれた。「して山」という山があるとか、「して」を強調しているとか様々な意見が出ることによって、たった一句を様々に読むことでイメージを膨らませることができることを実感できた。
さらに、全員に俳句か短歌を作ってもらい、それを張り出して鑑賞会を行った。失恋の俳句や部活動、勉強などを俳句や短歌にした。自分たちの作品をお互いに見あうというのは、表現することの意味と同時に、お互いを知ることともなった。
「ゼブラ」のクライマックスを読む
この小説はアメリカ人の作者が書いたもので、少年の交通事故と中年の先生のベトナム戦争で受けた傷を対比しながら、二人がともに心の傷を乗り越えていく話である。2年生になって初めての文学作品は、「走れメロス」であったが、これは夏休みの前の暑いときに、一時間かけて汗を流しながら読み聞かせをやっただけであったから、実質的にはじめての文学作品である。
時間もないので、人物の形象読みとクライマックスの読みだけを行うことにした。人物はゼブラとウイルスンさんの二人の人物形象を詳しく読んだ。その中で、アンドリアはゼブラが好きなのかということも話題に出た。ほとんどの男子はそれを読めなかった。それは、アンドリアがゼブラをからかっているからである。その表面から受けた印象を固定概念として持ってしまうようであった。
ゼブラについていえば、事故で怪我をしたことで手が動かなくなり、それがコンプレックスとなり、さらにトラウマとなっているという意見が出た。
次に、文学作品の構造を四コマ漫画でイメージさせ、山場の部の頂点をクライマックスと押さえた。そして、この作品のクライマックスはどこかと発問した。でも、生徒はクライマックスを探す手段を持っていない。そこで、クライマックスは決定的に何かが変わったところであるから、そこを探せばいいと説明した。また、一文であることも付け足した。例として水戸黄門のクライマックスをあげた。そして、クライマックスだと思われる所を3つ出して、一人一人に選んでもらった。
A、(ゼブラはもう一度、左手をかいてみた。二本の指がこわばったまま曲がっている。
奇妙でみっともない手だ。)ところが驚いたことに、今見るとちゃんとした手に見えた。
B、そして最後に、ボタンをハンドルの位置に付けようとしたとき、左手も使っている
ことに気がついた。(曲がったままだった二本の指が少しだけ伸びている。)
C、そうだ、土曜日か日曜日に、あの通りを歩いてみよう。(あの事故以来、フランク
リン通りを歩いたことはなかったし、坂を下りたこともなかった。うん、ゆっくり坂道
を角まで下りて、また少し上って、学校の前を通って、家に帰ろう。)
ほとんどの子が選んだのが、Bであった。理由は、左手が使えたことで彼はコンプレックス(トラウマ)を乗り越えられたということであった。Cの理由は、Bの時点では、彼はまだ乗り越えていないという意見であった。また、Bに対して、B以後に重要な場面があるが、それはどうなるのかという意見も出た。Aの理由は、BのきっかけがAであったからということであったが、これはそうやってきっかけを探していくと、前へ前へとさかのぼらなくてはいけなくなるから、おかしいという意見で変更した。
この論争は、クライマックスを考えることによって、主題をも読むことにつながり、人生のクライマックスや、どんなことにも初めと終わりがあることが話題となって面白かった。
漢詩の構造
漢詩の起承転結の構造は、4こま漫画、歌、物語、ドラマ、・・・などにも同じように出てくる。
春、夏、秋、冬を当てはめるとすると、起承転結のどこに当てはまるのだろうか。君たちの人生でいうと今は起承転結のどこ?先生はどこだと思う?・・・・これは、毎日起こる子どもどうしのトラブルを読み取っていくときにも役に立つ。この事件の発端は?伏線は?クライマックスは?・・・・評価するときの4つの拍手・・・。