鷲狩り伝説―鷲見大鑑の解読

昨日から鷲見大鑑を解読している。

実は資料は数年前にいただいたけど解読をするのは初めて。
解読は暗号を解くと同じで、読めない文字がわかるととても嬉しくなりすっきりする。
今回もわからないところはそのままにしておいて、後から読んでみるとわかるところがあった。

解読してみると、濃北一覧に書いてあることとはかなり異なっている。
濃北一覧がそれらを参考にして書いたことはわかっているので、どのように参考にして編集したのかが見えてくる。

二つの鷲見大鑑は元々同じところにあったことが分かったので、これをAとB(鮎走)とする。
扨、だんだんわかってきたことがある。それはAとBがほとんど同じということだ。当然といえば当然だけど。
そして、Aが先でBが後からではないかと感じる。ではなぜ目的が異なるのかが次の課題となる。

もう一つ、市兵衛文書というのがある。これは大屋氏の由来を書いたもの。
AとBは簑島小左衛門のことが書いてある。

そして、濃北一覧はそれらをつなぎ合わせたものだ。
だんだんと見えてきた。


20201009141321.jpg(935918 byte)

「美濃国郡上郡鷲見大鑑」

鷲見殿ご出生を尋奉るに、大宮殿二男と記丸様と申す。
承久三年七月朔日御出生御遊ばされ、其後の御名武蔵権守
申す。其節は禁裏天下の時なり。正月二日の御夢にいわく
是より北東において不思議のの巣(ご)もりを
成すと御夢にてさめにけり。それより武蔵権守に
仰せ付けられ供人三十六人にて美濃国へお越しなされ岐阜
奈ケ良江御宿なされ、奈ケ良渡にて船を召され候処に、川上より
の羽一羽流れ来て権守御不審に思い召して、お手づから
かいをさげさせ給い。お取り上げご覧有るに白ほの羽
長四尺七寸其の内にこんぢきの八幡と申す文字有。
此の川上にうたがいなしと思し召し、郡上へお尋ね上り
成され候。其れより其の羽小野村に預け置き給い。今の八
幡其時より宮祝ひ納候。扨それより御手分け成され
明方江小俵江権守殿上之方江御尋ね上り給う。神路村に
御泊りなされ、その夜神の御告げにいわく。此の川上に雲ケ
嶽という深山有り。急ぎ尋ね上り候得と、御ゆめぞさめに
けり。 それより急ぎ御立ちなされ、その時よりこの神の路と書いて
かんぢとよむ。扨権守殿岩高村に御宿とさせ給い
山口才三郎と申す者案内にて雲ケ嶽にお尋ね上り
給うなり。扨の鳴き声かすかに聞こえ給い。又三丁
ばかり行き給い。慥かに二声鳴く。権守殿此の谷奥に
うたがいなしと思し召し。又それより小ふたごえ大ふた
ごえと申す所へしばらくおやすらひ給い。いよいよ
谷ふかく尋ねんとおはしめし、見る小屋を
懸け給う。其の所今小城と申すなり。不審なる弥の右羽
二羽落ちて有れば是をお拾い給い。此の所にも又小屋を置き
給う。それより大城羽落しとは申すなり。其の間日数は五日に
およびきてわしのありか今に見えず。
草木茂り道通用もなりがたく、然る所へ岩高村
簑島小左衛門と申すものお迎えに百姓三人つれ来。小左衛門
権守殿に申す様はの有(あり)か心もと無く存じ奉り、お迎え参りし由申し
上げるに、権守殿その仰せ候は、例え日数五七日なりともの有る所見
届け申さず候内は、 と仰せられ候。又小左衛門申すは深山谷深き所より
御座候へば御退届に有る可く、一先ずお帰り遊ばされ候へと言上す。
しからばなんぢ申す通り一先ず帰り申すべくとて御家来八人
大城小城残し給い。 小左衛門案内して下屋こと申す所より
尾根伝いに七くらがり谷に通り岩高村にお帰りなされ
其れより向鷲見村と申すなり。権守殿十一日御追留まりなされ候。
其時山口才三郎飛脚にて参り、御前に向かい四日ほど前より
雲ケ嶽八分目より日の出四つ時々に一度づつ見え申し候と申
されば権守殿御よろこびなされ人足六拾四人小左衛門共に
お上がりなされそれより弥つか尾大清水と申す所に大きなる
いおりを作り給い。それより人そく共に申付け雲ケ嶽道を
伐りひらかせ弥に、五月上旬お上りなされ候。則ち今大屋此の所なり、同日
の巣を御見立てなされ候弥に、得候ひし也。彼のご覧
あるに大石打と申す尾羽一羽これ無くお尋ね成され候得ば長良にて
御あげなされ候羽にうたがいなし。扨それより六月三日
みやこへおもどりなされ候。禁裏様御よろこびかぎりなし。
権守殿ご家名御改めて遊ばされ、鷲見家保と下し賜わり
その後元長三年五月一二日美濃国あた田み庄内川西
川東永代知行千六百二拾三石下され、見の御役料に
向鷲見。お城御普請なされ、其時の御普請御見分の御役人
稲葉大膳に仰せ付けられ、同五年八月三日にお城出来仕り候。

その後に建武三年六月二十七日飛騨美濃御境御立てなされ候時に、飛騨国

・・・

ここには「鷲退治」をしたとは一言も書いてない。むしろ鷲を大事にしていた。
そして、鷹と鷲の字が混同して使われている。それは「鷹狩り」と「鷲を狩った」との混乱であろう。
かっては鷹狩りは権力者のステータスだった。
コーディネーターの井上さんと鷲見郷の鷲狩り伝説について二時間ほどいろいろ話し合った。
その中で気が付いたことを記録しておく。
今後もっと集合的な知によって方向が見えてくることを願って。

(1) 鷲見大鑑をだれか書いたか? なぜ必要だったのか? 
  二巻あるるはずでもう一巻はどこか? 作者「森保(夢保)」とは誰か?

(2) 鷲見大鑑には「あただみの庄」とある「芥見の庄」について

(3) 石高1623石 鷲見郷八ケ村の合計を年代ごとに調べる
  そもそも知行地とは何か? 百姓の土地はだれのものか?

(4) 大宮殿とは? その他出てくるいろいろな人名について

(5) 承久3年の意味 東氏との関係

(6) 「かきや」小川休和師のこと。濃北一覧の原典を見たい

(7) 鷲見郷→高鷲村 どういう経緯でなぜ改名したのか

(8) 大島鷲見氏の年貢は? 免除されていたのでは?

(9) 鷲見家の由緒(濃北一覧によると)は5つある
 @向鷲見(小左衛門文書)A穴洞(吉兵衛文書)B西牧谷C楢谷寺D等覚坊
 の5つもある。A〜Dを見てみたい

(10) 市兵衛文書の読み取りと鷲見大鑑との関連を調べる

まだあると思うけど、今後の研究のための問題提起。

ちなみに「かきや」とは現代の司法書士や行政書士のようなもので、紙屋(宮川)五平治もその一人だった。必然的に古文書が集まる仕事だった。郡内には5人くらいいて、それぞれ地区ごとに分担していたという。その資料も見たいものだ。


    仏暦二五六四年(西暦二〇二一年)一月

   目次へもどる