報恩講のおかし

子どものころ報恩講でもらったお菓子は何だったけ?
えーっと、「煎り豆」「爆ぜトウモロコシ」「炒ったがや」「炒ったクルミ」「勝ち栗」「渋柿の干した皮」「サツマイモの切干し」 「南瓜の種」「餅花の炒ったもの」「うむし」・・・
紙袋に入れてもらって外で遊びながら食べたなぁ。
さて、親父は菓子についてどう書いていたか。

おかし

 おかしとは家庭での小間食、或いは法事、報恩講(ほんこさま)などの仏事の後に配られる「茶菓子」のことを総称して言う。 「おかし」というのは近代的であるけども、その内容は頗る前近代的で、炒り豆を主に、トウモロコシ・がや・ くるみの炒ったものにかち栗や切干した渋柿など混在したものを言うのである。たまには生のお飾り餅一つ二つ入っていることもある。
 天与の恵みに火を加えただけで、どぎつい甘さ塩気なく、夫々の持てる味その身そのまんまの間食として長い間親しまれた。
 みんな行儀よく、お椀で配られる一杯のおかしに目を輝かせながら、貰うとすぐに、ドウマロのかくしに入れて、「ぼそ、ぼそ」と、 其処此処でふけらがしながら食べたものである。

ひのりばと縁側

「ひのりば」とは家の前庭のことで、たいてい南に面していて、日がよく当たるからそこで豆殻や切干、茹栗(ゆでぐり)などを(むしろ)の上に干す作業の場であった。
そして縁側は雨が降った時の一時避難の場所でもあり、作業場でもあり、社交の場でもあった。
 ⇒【切干しと縁側の話  ( 縁起の道理)】
ひのりばは作業の場でもあり、子どもの遊び場でもあった。  (この部分は文隆書く)

柿の皮

 秋の夜長、仄暗(ほのぐら)い灯の下、家族の手によって渋柿はむかれていく。 干柿は農家にとって現金収入の重要な手段であったので、串にさされ藁縄で(たば)ねられ、屋根の下に竹竿を通して行儀よく釣るし並べられて自然に乾燥させられた。 であるから柿の出来、不出来は、生活設計上、重大な要素をなすものであった。数十束連なる干柿を見るとき子ども心にもうらやましく思い、また世間の話題にものぼった。
 貧しければ、元より剥き出された柿の皮は、子ども達の間食として役立てられるべく、筵に広げられせいがい(出っ張った軒下)に干された。静かな秋の陽光に当たっていつしか干乾び、 褐色に変色する。その頃、子ども達はせっせとせいがいに通い、飢えた腹を満たすべく、鷲掴(わしづか)みにして頬張(ほおばり)(わず)かな甘みをむさぼった。
 干柿は余程のことがない限り食わせてもらえなかったが、まんがと言うやや小型の渋柿は商品価値がないので、 四つ切れにして干され柿の皮同様に扱われたので食べることができた。また、その渋柿の傷ついたものを、ゆるいの熱い灰の中に埋めて、焼き柿にして食わせてもらった。 焼ける程に渋味が消え固さもゆるんでくるが、待ち切れず、熱く歯にしみ透るような固いやつをねぶりねぶり食べた。

干し栗

 祭りの笛の音も納まり終わって、秋色静かに山里に訪れる頃、栗・栃・どんぐりなど、木の実の落ちる音を聞くことができる。
 山を駆け巡り、今日はこれこれ明日はあれこれと、婦・子どもによって山の幸は蓄えられていく。 茹でられて筵に広げられると、日ならず、張りつめていた表皮も皺枯(しわが)れて、干し栗となる。 特に粒の揃ったものを選り出し、糸に通し連珠にし、数珠栗(じゅずくり)として干し上げることもある。
 即席のおかしとして、来客の折に重宝がられたし、雪に閉じ込められた冬の夜長、炬燵に(たむろ)する 家族の、つれづれの友として限りなく心を和らげてくれた。 歯で打てば、ゆるく山の香が口中に転げ回る。もうそのような情景は永久に終局を告げたのであろうか。

がや(榧)

 近頃、世界の木の実と称して、いろいろな国の代表的な木の実を、店頭で紹介していてくれる。 いずれも高価で、チョッピリ味を嗅がしてもらう程度で、庶民にはなかなか手の届く所まで行っていない。 そこで、私達の住んでいる高鷲の木の実についてであるが、結構、話の種になるものが存在していることは、先刻ご承知であろうと思う。 もし今、ふるさとを代表する「木の実」として挙げるならば、まず以って「がやの実」を推さなければならないであろう。
 成熟した榧の実を調整するには、幾多の工程と時日の経過を必要とする。表皮を腐らせ、灰汁(あく)抜きをしてよく乾燥する。 これら幾多の施工は、すべて主婦の手によってなされる。
 調整された榧の実は、とろ火で気長に炒りあげ、炒り榧として、また、炒り豆などに混入して間食に供される。 外殻を噛み破って実をよじれば、乾燥し切った渋皮が散り、色づいた美しいしわ模様の木の実が摘み出される。 口にすれば独特の味を保って香ばしく、何時しか榧の実の虜になってしまう。形の良いものから選り食いしているが、 結局、最後の一粒になるまで、次から次へと手が伸ばされる。
 耕作するわけにはいかないので量に限度があり、主婦のしんがいとして、うすなわに仕舞いこまれ、其処彼処(そこかしこ)に そっと配られる榧の実。あでやかさははないにしても、世界の木の実に伍して、決して遜色のない逸品であることは、味知る者のみの独りよがりでは無い様な気がする。
(生で食べると十二指腸虫の駆除に特効があるとか言われ、其の面でも価値がある。)

餅花

 寒々とした座敷内の鴨居(かもい)に咲いた餅花も忘れがちに、明け暮れ雪とのたたかい、ふるさと高鷲の冬は長かった。 厳しかった。 ようやく月も改まり日も足早に去って行き、障子に映る陽光も一段と明るさを取り戻す。此処彼処、春の息吹が感じられて、 そぞろ野良(のら)に心動かされる頃、忘れられていた正月の餅花が、いつとはなしに取り外される。 乾ききった餅花の小枝を折って、一つ一つの花餅をもぎ取り、おふくろに炒ってもらう。 固唾(かたづ)を飲んで見守るうちに、(ふく)らんであられとなる。
 自家製で何の加工も味も施さなければ、淡白で、ただあられと言う名に惑わされて、寄り居る子ども、一つ一つ摘まんで口元に運ぶ。 みんなの顔は底抜けに明るい。
 「シュー トントン シュー トントン・・・」子どもらの春の装いの布であろう。おふくろは、もう機織りに余念がない。 (在りし日のふるさと高鷲の光景)

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