俱生神(ぐしょうしん)と共に

唯識から学ぶ

一、ヨガと瑜伽(ゆが)

 最近、娘に勧められてヨガをやっている。 これは一種の禅であり、身体の方を整えることで、とても気持ちが良い。 身体を整えると、心も整うのだと思う。
 ヨガは瑜伽であり、瞑想の仕方の一つなのだ。 やっていると呼吸が一番難しいことに気がつく。 息を吸うよりもゆっくりと吐くことが大事だということもわかってきた。
 もう一つ気がついたことがある。それは手の向き。 手の平を上に向けて寝るか下に向けて寝るかで、全く感覚が異なる。 外からの声だけでなく、内からの声・身体の声を聞くことも大事なのだろう。

二、唯識では涅槃と菩提は異なる

 多川俊映師の『唯識 心の深層を探る』を読んでいる。
読んでいると真宗のベースは唯識にあると感じる。
例えば阿弥陀経に出てくる「五根五力」は、次の五つの根とそれらの力(はたらき)。
「信」 自己を真理にゆだねる
「勤(精進)」 たゆまず努める
「念」 記憶する
「定」 集中する
「慧」 択び分け、正邪を判断する
浄土真宗では最初の「信」一つを大事にする。

 私は「煩悩」と一言ですますが、唯識では私たちの障碍を二つに分ける。 「我執」と「法執」である。
「我執」とは自我に対する執着で、いわゆる自己愛。
これを断滅した状況が「涅槃」。
「法執」とはモノゴト、ことがらに関わる執着。いわゆる理念に縛られること。
これを断滅した状況が「菩提」。
私は法執には常にとらわれている。
そして、「涅槃」は心身の寂静で、「菩提」は覚の智慧

 「涅槃」と「菩提」をこのように分けるということを初めて知った。
ちなみに精神分析は心の奥底を知れば行動が変わるが、唯識では心の奥底は見ることも変えることもできないとする点が異なる。
 もう一つ、唯識というと「阿頼耶識」が思い浮かぶ。
この阿頼耶識は第六識では自覚できないが、阿頼耶識の影響は末那識へ、そして、末那識から第六識へと影響を与える。
つまり、私たちが自己だと思っている第六識は、知らずに末那識や阿頼耶識の影響を受けているのだ。

三、「俱生神」の記録

 ところで、私はよく法話で閻魔大王の裁判のことを話しているけど、「閻魔帳は誰が書いたのか」とつねづね疑問に思っていた。
その答がこの本の中に書いてあった。
それは「俱生神」が書いているというのだ。
一人の誕生に際して、その左右両肩にそれぞれ俱生神が付いて、私たちの行為を一つひとつ漏れなく記録する。
左肩の神は善いことを、右肩の神は悪いことを記録していく。
イメージとしては、一人ひとり記録を、AIがデータとして保存するようなもの。
そして、死に際してそのノートを閻魔様に提出する。
とすると「浄玻璃鏡」も同じだな。
つまり、この俱生神が阿頼耶識なのだ。そしてノートに記録されたものが「種子」。

 もう一つ気がついたことがある。
六煩悩の貪瞋痴は、「むさぼり」、「いかり」、「おろかさ」と思っていたら、 唯識では、瞋は「怒り」ではなく「排除する」だったのに感心。
怒りは不正に対しても感じるけど、その後に排除するのがいけない。
確かにそうだと感じる。

四、浄土真宗と唯識

 次は、唯識と浄土真宗のつながりを取り上げよう。
そもそも天親菩薩(バスバンドウ)は唯識を大成された方だ。
だから親鸞さんが影響を受けないはずがない。

 法話で俱生神の話をしたら、 「私たちの身口意がすべて記録されているって怖い」という感想が出た。
ただし、何が記されているのかは私たちには知ることができない。
しかも、私たちは何が善くて何が悪いことなのかわかってはいない。
 ここでふと思うのが、このブログの記録。
当然ながら全てを書くことはできないけれど、 こうやって記録したことは、一か月もするとすっかり忘れてしまっている。
つまり意識に上ることはないのに、ちゃんと記録は残っている。
時々「何か書いたような気がするけど何だったっけ?」と検索している。 そうやって検索したら、以前「唯識について」書いたものが出てきた。

我が心の良くて殺さぬにはあらず

 一六年前に書いたものだけど、内容はすっかり忘れている。
よく読んでみるとなるほどと思うことが書いてある。
ところが、それをすっかり忘れているから何度も新しく学び直さなければならない。
と同時に、ボケてもちゃんと記録されていると思うと何だかうれしくなってくる。

 念のために大経五悪段の中にある関連する言葉を引用しておこう。
かくのごときの悪は人・鬼に著され、日月も照見し、神明も記識す。 ゆゑに自然に三塗の無量の苦悩あり。
「人をだませてもお天道様はちゃんと見ているぞ」ということ。
だからと言って、記録を燃やしてしまうことはだしかんぞ。

 多川俊映師の次の言葉はいろいろ考えさせられる。
生と死は切り離すことができない。
モノとこころも切り離すことができない。
モノをどんどん捨てる社会は、人も使い捨てにする。
人を大切にしない社会は、人の心もしっとりと育むことがない。

    仏暦二五六八年(西暦二〇二五年)五月

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