仏恩とは何か

おかげ様と縁起と御恩報謝

一、御恩報尽の念仏

そのうへの称名念仏は、如来わが往生をさだめたまひし、御恩報盡(尽)の念仏とこころうべきなり
御恩報尽とは御恩を報謝するということです。
ここでわかりにくいのが御恩という言葉です。
私はどんな御恩を受けていたのか?
そもそも御恩とは何か?
そんな疑問が浮かんできます。
蓮如上人にお聞きしてみましょう。
「仏恩をたしなむという仰せがあるが、これは世間で普通にいう、ものをたしなむなどというようなことではない。  信心をいただいた上は、仏恩を尊く、ありがたく思って喜ぶのであるが、その喜びがふと途切れて、念仏がなおざりになることがある。  そういうときに、このような広大なご恩を忘れるのは嘆かわしいことだと恥入って、  仏の智慧のはたらきを思いおこし、ありがたいことだ、尊いことだと思うと、仏のうながしによってまた念仏するのである。  仏恩をたしなむというのはこういうことなのである」 と仰せになりました。 (蓮如上人御一代記聞書)
また、御恩の具体的な相を次のように述べられておられます。
万事につきて、よきことを思ひつくるは御恩なり、悪しきことだに思ひ捨 てたるは御恩なり。捨つるも取るもいづれもいづれも御恩なりと[云々]。
これを読むと、浄土に迎え入れ仏にするという仏恩だけではなく、御恩をもっと広くとらえておられることがわかります。

二、「 恩」とはなにか?

私はこの「御恩」について深く考えていませんでした。
ただ、「 ありがたい」という念仏を報恩念仏ととらえているだけでした。

親の恩さえ感じていないのに、仏のご恩は感じられない。
仏のご恩を感じられないから、親の恩も感じられないのか。
ありがたいことだと思えない。ありがとうございますと言えない。
不平不満ばかりの毎日です。それが正直な所です。

かって、赤尾の道宗さんが、「四十八本の薪の上に寝て、仏のご苦労・ご恩を忘れないようにした」 というエピソードを聞いて、密かに安心したものです。
蓮如さんから直接聴聞していても、それくらいにしないとご恩は身に感じることができないのだな、と。
ご恩を感じたからやったのではないと思います。ご恩を感じるためにやったのでしょう。ご恩は忘れやすいのだ。 ご恩を忘れて、自分がやったと思ってしまう自分であるから。
理屈では、頭ではわかる。しかし、身に感じることはできない。
それで、道宗さんは薪の上に寝て、薪の痛さで目が覚めるたびに仏様に合掌し、念仏が称えられる事を感謝したのでしょう。信心をいただいたご恩を感謝したのでしょう。
それくらい恩を肌で感じることは難しいものなのです。

聴聞にこられた方が、
「 自分がこんな目になって、苦しい目にあって初めて周りの恩が分った。」
と語られました。
これは人の恩かもしれませんが、悲しい目、辛い目に会わないと、恩を感じることができないようなのです。
煩悩と救いはワンセット。無明と悟りはワンセット。怨と恩はワンセット。
仏の大慈大悲を感じることが恩を感じること・・・。

では、人はなぜこのような苦しみを受けないと救われないのでしょうか?
仏は、なぜ人を最初から浄土にすくい取らなかったのでしょうか?
なぜ人をこのように苦しみの世界におかずに、すぐに安楽の浄土にすくい取らないのでしょうか?
曇鸞さんは、それは、水のない氷、煙のない火を求めるようなものだと言っています。
私たちの現世での苦しみは、私たちをより高い世界に導き、苦しみが大きいほど喜びは大きくなるのでしょう。

三、知恩報徳

信心の利益として、「現生十益」の中に「知恩報徳」が取り上げられています。
つまり、恩を知りそれに報いるようになることは、生きている上での利益(りやく)だと言われているのです。
知恩というのは「なされたことを知る(者)」ということであり、恩という漢字はそれを見事に表しています。
この心が私たちの心持ちとして現れてくると言われているのです。具体的に次の例を取り上げます。

ボランティアとして幼児を救った尾畠春夫さんは「恩返しの奉仕をしている」だけと言われました。
尾畠さんは、若い時から大変な苦労をされたのですが、
頂いたご恩にお返しをするため、ボランティアをしたい
(朝日新聞10/11「お金で幸せになれる?」より)
と語っておられます。

ボランティアというのは真宗の用語では報謝です。 つまり、人生で受け取ったものを感謝し、だからこそ御恩報謝をすると言われているのです。
尾畠さんは宗教については語っておられませんが、私は仏教の到達点がこの言葉にあると感じます。
「この世に生を受け、人生を豊かに過ごさせてもらった。だから後は御恩報謝するだけ。」そう感じる人はまさに豊かで素敵な人生をおくられた方でしょう。

また、私たちの先輩で昨年往生された畑佐敏男さんが、八十五歳の時に、
「今この歳になって、八十五年の人生の中で自分が積み上げたものは何もない、全てがいただきものであることに気づかせていただきました。
生かされていること、いのちのありがたさをよろこび、一日一日を聞法と御恩報謝につとめさせていただきたい。」
と語っていました。敏男さんはビハーラ活動など20年以上続けられた方です。

昨年私に初孫が生まれました。 可愛くてしかたありません。 でも、数日いて帰っていきました。 今度はさみしくて仕方ありませんでした。
その時、母が祖父のことを語ってくれました。
「お前が初孫やったでうれしかったとみえてよう可愛がったなあ」と。
私は病弱だったので、よく入院しました。 その時に一緒に病室で泊ってくれたり、看病してくれたことを思い出しました。 そして、いろいろなことが次から次へと浮かんでくるのです。
祖父はもう30年以上前に亡くなっています。
私は今まで、祖父がそうやってくれたことは当たり前のように感じていました。 でも、かって祖父がしてくれたことが、孫への思いを通してやっと私にとどいたのです。
そう感じたら涙があふれてきました。
祖父からの贈り物が今私に届いたのです。
この贈り物にどうやってお礼をすればいいのでしょうか。
祖父は決してお返しをしてほしいと思っていなかったと思います。 私がそう思っていないように。
私ができることは、祖父からもらった贈り物を今度は孫に贈ることだけです。

四、法然上人の涙と仏恩

仏恩は、法蔵菩薩の五劫思惟と兆歳永劫のご修行によって建立された浄土と名号に込められています。
だからこそ、先人方は、名号から「いのちの中に生きている」ことを体感されたのでしょう。
そして、「御恩報謝は往生するかしないかとは全く関係がない。だからこそ怠けずに勤めなければならない。」と語られています。
生きているのではない。生かされているのだ。だからこそ人は恩に生きるしかない。恩に生きるしか生きようがない。
美しい他力思想です。

法然上人は43歳の時に、善導大師の観経疏のこの一文に出会います。
弥陀の名号を専念して、行住座臥、時節の久近を問はず、
念々に捨てざるをば、これを正定の業と名づく、
かの仏願に順ずるがゆゑに。
それまでに4回もこの文と出会っておられます。
そして、称名こそが私たちの正定の業(行)だと感じておられたのだと思います。 でも、なぜ称名こそが私たちが救われる行なのでしょうか。

念仏は誰でもいつでもどこでもできます。
でも、ひと時も念仏を捨てない(念々に捨てざるをば)ということは私たちにできそうもありません。
そんな時、
法然上人に、「かの仏願に順ずるがゆゑに」という最後の文が飛び込んできました。
そうだ、捨てないのは私ではない。
仏が捨てないのだ。「摂取不捨」(決して捨てない)というのは仏の願いではないか。
称名は仏の側の行だったのだ。
法然上人の涙は、この仏の恩への歓喜の涙だったと思います。


本願力に遇いぬれば むなしく過ぐる人ぞなき
   功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし

なまんだぶ

    仏暦二五五三年九月(平成二二年)書き始め
    仏暦二五六一年一一月(平成三〇年)書き換え

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