教えること・教えないこと

―― 証明するという文化様式 ――

“対頂角は等しい。”

 「なぜですか?」と問うても子どもたちは戸惑ってしまう。
 そもそもなぜ等しいのかという問い自体が成立しないのかもしれない。子どもにとって見れば、見たらわかるのである。

 私が大事にしてきたのは、コミュニケーションとしての数学だったから、誰にもわかるように説明することを要求してきた。見たらわかるけど、疑って、そして誰もが納得するために説明をしようと要求してきた。
 ところが、この証明は子どもの発想からは出てこない。これは教えること・伝えることなのだ。

○対頂角が等しいことの証明

(1) aとbが等しいことを考える。
(2) そのために第三項cを考える。
(3) a+c=180°(直線は180°)
  b+c=180°
(4) a+c=180°=b+c(同じものは等しい)
(5) a+c−c=b+c−c(等しいものから同じものを引いても等しい)
(6) a=b

○教材分析

 ここで、特徴的なことは、aとbを結びつけるために、第三項cを用いていることである。
 あるものと別のものをつなぐために第三項を入れるという発想は、自然には出てこない。
 でも、数学にはそれがたくさんある。

・等式の性質で両辺に四則で持ってくるもの
・マイナスの数を引くときに、(a−a)を持ってくること
・二つの三角形を比べるための合同条件
・二つの円周角が等しいことを言うための中心角
・教師(大人)と子どもをつなぐ教材
  ・ ・ ・

 この第三項は媒介項である。私たちを取り巻く世界は、単純な二者関係ではなくこの媒介項が必ず存在する。
 卓球をやっている生徒に、今二人が対戦している。でもそれは二人が向かい合っているだけではない。球という媒介項を通じて二人が対話をしているのだと話したら、妙に納得していた。
 小説では男と女の間に第三者が加わり物語が始まる。三角関係は全ての物語の基本形なのだ。

○証明という文化様式

 私はこの証明を中学生の頃に知った。自分で見つけたわけではない。そのとき、なるほどと感心した覚えがある。証明とはこういうことなんだ。説明とはこういうことなんだ。同じものを同じというだけでもこうやって説明するんだと。その時、私はギリシャの文明の一つを身につけたのだ。

 証明というギリシャで起こった文化は、そこに見方や考え方を含んで広がっていった。これは教育の立場からは、「見方・考え方」そのものを伝えることにあたる。「見方・考え方」はどうやって伝えられるのだろうか。
 私たちは、社会の中で様々な様式に取り囲まれて生きている。だから、自分で考えなさいといわれても何らかの様式の影響を受けている。とすると、そういった「見方・考え方」は様式の中で身についていくのだといえる。

○「見方・考え方」と「発問」

 そこで、これを子どもたちに身につけさせる時、私たちは「発問」を用いる。
この場合、
「こんな当たり前と思うようなことをギリシャの人たちは証明した。どうやって証明したのだろう?」
という大きな発問をする。
 次に、aとbを図に書き込み、
「a=bであることを言うために、このaとbを結びつけるものを持ってこよう。aとbを結びつけるものは何だろう?」
と次の発問をする。

 お気づきと思うが、発問とは〈見方・考え方〉である。この発問を子どもたちのものにしたときに、〈見方・考え方〉が身についたといえる。
 そのために、
「a=bであることを言うために、このaとbを結びつけるものを持ってこよう。つまり?」
などと発問を変えたりする。
 この場合、「結びつけるものは何か?」と答えればOKである。このように、最終的には子どもたちが自ら発問をするようにしていけば、その〈見方・考え方〉はマスターしたことになる。

 さらに結びつけるものは「cだ。」と答えれば、
「なぜ?」と聞くか、「cを持ってくると、aとbの間にはどんな関係が見つかる?」
と発問する。その場合、誘導的過ぎては〈見方・考え方〉は身につかない。

 この「発問」=説明も優れた教育文化の様式なのだ。


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