「レトリック」と「限界数学」

数学のデザイン

1、次のAとB二つのアプレットを比べてみよう

A.この方程式【f(x)=0】の根は赤い点で示される(x軸との交点)。
  では、グラフを動かして、上に持ち上げると、根はどこに行ったのだろうか?

ちなみに根についてはガウス平面に変わる。□をチェックしてグラフを動かしてみよう。

B.右に書いてある二次方程式の係数と根の関係を係数を変化せて調べてみよう。
  χ=の√の中をマイナスにすると、根はどうなるだろうか。


この二つは同じことを少し変えて表わしたものだが、どちらがわかりやすいだろうか?

Aの方はグラフを直に動かすことによって根も動き、複素数の根も見えてくる。
でも、なぜこうなるのかはわかりにくい。
Bはとっつきにくいが、式が書いてあるので、少しわかっている人には考えやすい。
つまり、わかりやすさは、見る人それぞれの興味やわかり方によって違ってくる。
一方、表現する立場に立つと、A,Bはデザインが異なっている。
Aは興味づけのためのもの。Bは係数と根の関連を調べるためのもの。
つまり、何を目的にするのかで、同じことでも表現のし方(=デザイン)が違ってくる。

2、デザインとしての数学

このことは、二つのこととまとめることができる。
(1)デザインの問題
(2)その人のわかり方の問題
わかり方もデザインに大きく左右されると考えれば、この二つはデザインという言葉でまとめることができる。
が、このような目的に沿った表現のし方は、文章も含めるとレトリック(巧みな表現をする技法)である。
そして、レトリックは全体の構成も含む。だからレトリックによってデザインが変わってくる。
例えば、「Aのグラフを作ってみよう」という課題にすると、異なったデザインになる。

このように考えると、「定義→定理→証明」という数学の表現もレトリックであり、一種のデザインである。

3、「限界数学」へ

このことは、「数学」が、もっと広がりを持っているということを指し示している。
その広がりを持った数学を、仮に「限界数学」と名づける。
イメージとしては、日曜数学・趣味の数学・数学カフェ・和算・教育数学などである。
最後の「教育数学」とは、教え伝えるデザインとしての数学であり、「学校数学」とは異なる。
そして、「専門数学」や「先端数学」とも異なる。
さらに、「大衆数学」(一般の数学に対するイメージ・答えは一つ、数式アレルギー・理論的などの)とも異なる。

「限界数学」は、鶴見俊輔氏の「限界芸術」論からとったもので、この「限界芸術」は政治や科学・数学にも当てはまると考えたからだ。
鶴見は、専門家によってつくられ、専門家によって受け入れられる芸術を「純粋芸術」(Pure Art)、 同じく専門家によってつくられるが、大衆に楽しまれる芸術を「大衆芸術」(Popular Art) としたうえで、非専門的芸術家によってつくられ、非専門的享受者によって享受される芸術を「限界芸術」(Marginal Art)と考えた。
限界芸術の具体例として鶴見が挙げたのは、落書き、手紙、祭り、早口言葉、替え歌、鼻歌、デモなど、 私たちの誰もが日常生活で繰り返している身ぶりや言葉である。
それらは一見すると「芸術」とは隔たりがあるように思われるが、鶴見によれば芸術とは美的経験を直接的につくりだす記号であり、 この観点に立てば、ふだんの暮らしの中での美的経験は、展覧会で絵画を鑑賞する美的経験などよりも、かなり幅広い拡がりをもっていることがわかる。
こうした生活の様式であると同時に芸術の様式でもあるような領域を、 言い換えれば生活と芸術が重なり合う「のりしろ」の部分を、鶴見は限界芸術であると考えたわけだ。     (著者: 福住廉氏より)

4、「数学」を代入する

この文章の「芸術」に「数学」を代入してみると、限界数学のイメージが浮かんでくる。、
「数学の様式」とは何だろうか。式やグラフや図で表すことだろうか。
「生活と数学が重なり合うのりしろの部分を限界数学であると考える」という所が言いたいところ。
これを私なりにまとめてみると、
 (1) 専門家ではないが興味がある→やってみたいと思う
 (2) 専門書を読んでもわからない→自分なりの理解の仕方がある
 (3) 問うという手だてと、問いに答える方法がある

特に(3)については、私で言うと、ジオジェブラという表現の手だてがある。
 (1)アイディア・問いが作品となる
 (2)自分が美しいと思う→デザインによって大きく変わる
 (3)書くこと作ることが表現である
 (4)日常から生まれ、個人から生まれる

この「限界数学」という言葉は、「学校数学」や「専門家」という言葉に対して批判的な目を注ぐ。

5.子どもたちは「最先端の数学」をしている

子どもたちが算数の問題に取り組んでいるとき、それは最先端の問題に取り組んでいる数学者と変わらない。

子どもたちだけではない。私たちも問題に取り組んでいるとき、「最先端の数学者」なのだ。
でも、どうしたら問題に取り組もうとするのか。そして、それを解くための方法が見つかるのか。
それには、
 (1)面白そうなことを探す(掘り起こす)
 (2)それを掘り下げる(問いを持つ)
 (3)面白い発見を表現する(レトリック)

今までは(1)や(2)が大事だと思っていたけど、(3)が結構広いことに気がついた。
今まで関係ないと思っていたものがつながりることが発見であり、そこに面白さがある。
それは、表現しようとしている中で見つかってくるものだ。
こうなると、別のアプローチを追求したり、新しいアイディアが出てきたりと無限にある。
ここに限界数学の可能性がある。
さらに「プリコラージュとは何か」を考えていたら、限界数学も同じことだと気が付いた。
そして、「野生の思考」と「科学の思考」は同じことなのだ。

例えば、かけ算は九九を知らなくてもでできる。線を引いて交点を数えるだけでかけ算ができる!
このアプレットの左下の三角をクリックしてみよう。

これは「ブリコラージュ」(ありあわせの道具材料を用いて自分の手でモノを作る)なのだ。
ちなみに、九九を覚えるのが苦手な子が、線を引いて交点を数えるだけで求まる。

6、読み書き算と世界観

読み書き算は、(現実)認識の手段であり、認識そのものであり、認識の概括であり、方法であり、
私たちの世界観形成に大きな役割を持つ    (城丸章夫氏)

  【話ことば・話し合いことば】 ←→ 【語りことば】 ←→ 【書きことば」
   音声を伴い              意見・考え      内言・抽象性
   対話者がいる             思想を語る     自覚性・随意性

話ことば→書きことば→語りことば
このように図式化すると、書くことは「書きことば」と「語りことば」をあわせもっている
そして、そこに物語がある
そうなると、限界数学は物語でもある。


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