座右の書「数学教師人生を変えたこの一冊」

「学び」とは考える方法を身につけること

―大西忠治氏の国語教育の技術と分析について―

『国語科授業の分析技術』 大西忠治教育著作集16 1991年 明治図書

 「数学教師人生を変えたこの一冊」と大上段に振りかぶっているから、本の紹介というよりも、私自身の教員人生を問い直す方に重点がある。もちろん、人生が多様なエピソードを持つと同様に、学んだ本の数も多様である。だから、一冊が人生を変えるなんてコトはないと思う。
 しかし、あえて一冊にこだわって自分の「学び」の歴史を振り返ってみよう。取り上げるのは数学ではなく、生活指導と国語の教師であった大西忠治氏の『国語科授業の分析技術』である。私は大西氏から多くのことを学んだ。

1、数学で何を教えたらいいのか

 中学の教員になったとき、数学を教えなければならなくなった。でも、数学とは何かわからなかった。なぜこれをやるのか。誰が考えたのか。何の役に立つのか。私は何もわからなかった。子どもたちに、栄養になるからと美味しいと感じない料理を食べさせていたようなものだった。
 今振り返ると、方法を考えずに内容を先に考えたのは正しかったと思うが、それは、内容がわからずに、教え方がわかるはずがないと思っていたからだ。
 そして、これらの答えは比較的簡単に見つかった。数学史である。数学は人類の歴史だから、そこから見ると誰がどんな必要性から考えたのかわかる。「人類の歴史が今君たちの学んでいるこの数学にある」と語りながら、様々なエピソードを取り上げ、楽しい教材を提示することができた。特に、それがどういう歴史的な必然性の中から発見されたのかわかることは、私自身が面白かった。

2、読みの技術と指導の技術と理論

 数学の面白いエピソードを伝えることはできる。子どもたちも興味を持って聞いてくれる。でも、それで良いのだろうか。私は、本当に子どもたちに「数学のちから」をつけているのだろうかと悩みだした。
 次の課題は、子どもたちに「どのように」教えたら良いのかであった。
 この頃、これは面白いと思って意気揚々と子どもたちに提示しても、興味を示さない場面がよくあった。それは、学習者の認識の問題だと考え、心理学や認識論の本も読んでみたが、実践にはほとんど役に立たなかった。
 そんな時に読んだのが大西忠治氏の著書である。大西氏は国語の教師である。冒頭に挙げた本は、国語の授業記録や実践記録の分析が書いてある。このように批判的に分析してこそ、その実践からほんとうに学ぶことができるのだと感心し、どうしてこのような分析ができるのかを読み取ろうとした。すると、その方法を明らかにし、誰でも使える技術にしていこうと彼自身が追求していることもわかってきた。
 指導要領では、知識・技能・思考・態度を育てることになっている。しかし、技能とは計算力やグラフや作図の技能だけなのだろうか。思考も一つの技能ではないだろうか。思考することをどう教えたらいいのだろうか。子どもたちにちからをつけるとはどういうことなのか。
 この「国語科授業の分析技術」は、そういう問いを持つことを教えてくれた。

3、指導とは子どもにちからをつけること

 大西氏は、読み方=考え方の技術を子どもに教えることが、子どもに読みのちからをつけることになると考えていた。読みながら、私はいつもそれを数学に置き換えていた。読み方=問題の読み方、説明文=数学の本、考え方=解き方などと。
 これは、一つの「学び」であり、その「学び」は教師自身のものであると同時に、子どもたちに教えることができるものである。だから、それは技術となる。私は知識だけでなく、考え方の方法も技術にしようと意識するようになった。
 もう一つ大切なことは分析である。分析の仕方は読み方である。例えば、授業の分析をどうやってやるのか。私はそれを「問い」としてつかんだ。大西氏の「問い」がどこから出てくるのか。その問い自体を自分のものにすれば分析ができると考えた。式の読み、問題の読み、図の読み、指導案の読み…そういう分析技術と同時に、研究授業などでその教材の持つ意味を探っていくという方法である。
 例えば、正・負の数のモデルはたくさんある。当初はどれが一番子どもたちに受け入れられやすいかを考えていた。しかし、分析の方法を学んだ時、問いが始まった。なぜこんなにモデルが多いのだろうかと。多いことが示しているものは何なのだろうかと。⇒【4、数学 と モデル(正・負の数とモデル)

 この本の授業分析の中で、大西氏が「発問」について鋭い分析を加えながら、「発問」のはたらきを探り出し、「教師の発問は、子どもの自問へ転化できるように考えぬかれてこそ、国語(数学)のちからを、ほんとうに子どものものにできるはずである。」と語っている。そういった実践の分析から取り出した、構造読み、形象読みなどの読みの技術を知った時、私も「数学理解(読み)の技術論」をつくりだそうと願うようになった。
 最後に大西氏の言葉を引用して終わろう。

 「教育とは、被教育者の教育する者への否定を、つまり、後代は教育を媒介としてはじめて前代の否定者たり得ることを本質としている。」

 教育の本質は、教えたものから否定される=乗り越えられるところにある。乗り越えられるからこそ希望を託せるのである。
 

(この文章は明治図書の「数学教育」の原稿である。)


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