発問とシンキング・スキル

―「内言」から「発問」の意味を問う―

○内言と外言

 中二の頃、私は、「言葉を使って考えている」ということに気がついた。言葉が無ければ考えることができないという発見は、当時の私にとって大きな事件であった。そして、これはやがてヴィゴツキーの「内言」につながっていく。
 言葉は、コミュニケーションのための道具の一つであるが、幼児には「独り言」が多く見られる。この「独り言」をどうとらえるのかで、ピアジェとヴィゴツキーは論争をした。

 ピアジェは、「独り言」(=自己中心的言語)は、まだコミュニケーションになっていない言葉で、やがて社会化されてコミュニケーション言語に発達すると位置づけた。
 それに対してヴィゴツキーは、数多くの観察を重ね、この「独り言」も、社会的なコミュニケーションの一つで、ただ自分自身に向かって語りかける言語であるとして、ピアジェを批判した。そして、これを「内言」と名づけ、やがて「思考の道具」に変わっていくものととらえた。

 ヴィゴツキーによれば、言語には二つの働きがあり、一つは「外言」で他人との相互交渉の用具であるような言葉である。もう一つは「内言」で、「独り言」のように自分の行動を抑制し、組織づけ、統制しようとする働きである。つまり内言は心の中で交わされる思考の道具としての言葉である。

 そういえば、数学の問題を解く時に、「この線を引くと・・・」「ダメか」「これは前と同じだ」・・・と独り言を言いながらやると、黙ってやるよりも良いアイディアが浮かぶことが多い。
 私は「個人思考」は「自分自身との対話」ととらえており、授業における「集団思考」は「独り言」だけでなく、「集団的な討論」も含めている。
 コミュニケーションには、話し(スピーチ)、会話(トーク)、討論(デスカッション)、対話(ダイアローグ)等がある。どれも「思考」とつながっているが、それらは全て内言(独り言)を育てるモノと位置づけることもできる。

○シンキング・スキルとしての言葉(内言)

A.「独り言」=「思考の道具」としての言語=内言
B.「社会的交渉の用具」としての言語=外言
C.内言と外言をつなぐものが対話   内言⇔対話(発問)⇔外言

 内言が思考の道具だとすると、内言をどう育てるのかということが課題になる。
 「独り言(自己中心的言語)は内言の発達する前段階にあらわれるもの」だから、「独り言」はシンキング・スキルの前段階である。授業でのつぶやきを大事にするという発想はここから来ている。
 では、それがどのように「シンキング・スキル」(=内言)にまで発展するのか。内言は思考にとってどういう働きをするのか。
 内へ向かう言葉(内言)は自分への問いかけである。私たちは独り言を言いながら様々な思考をしている。それは、自分自身に問いかけ、自分自身で答えていることである。この場合、「問う自己」は自己の中の他者でもある。「答える自己」は自身の尊敬している他者であることもある。

 この自分自身への問いかけ(内言)を、教師は「発問」という。この「発問」について少し考えてみよう。教師にとって、「発問」は「疑問」とは少し違う。疑問は学習者がわからないことを問うことである。発問はどこに焦点をあてるのかということや思考のスキルをも含む。したがって学習者自身に持ってもらいたい問いかけ(疑問)でもある。だから、発問は進化成長する。
 また、「問題」ともちがう。問題は「テスト問題」に象徴されるように、相手やこちらの動機とか状況は問われていない。

 ところで、授業で最も大切なことは「説明」である。説明はモデルをもってされる。モデルは学習者が既に良く知っているものを用いる。新しい概念を学習者に習得させる時、既に知っているモデルと対比させながら学ばせていくという方法が最も習得されやすい。
 ところが、教師は教えたい内容を説明として一方的に話すことはしない。常に発問をしながら説明をする。では、「説明」ではなくなぜ「発問」なのか?

 その理由は、「内言」を用いるとはっきりする。「発問」は、その概念を用いる見方や考え方も伝えようとする。つまり「発問」は学習者にとっては、「外言」であるが、それを限りなく「内言」にしていくというねらいがある。一方的な説明は講義であり、学習者にとっては受身となってしまう。だから、「発問」は常に学習者の「内言」としていかなければ「思考」をすることにはつながっていかないのだ。

○モデルとなる他者=メンター

 「発問」は、それを「内言」にしていく過程が必要となる。内言を作り出すためには、発問のテクニックと同時に、「他者」が大きな作用をする。つまり(尊敬する)他者をモデルとしてその他者の考えるように学習者は自分自身に問いかける。
 それは「発問」を「対話」へと変化させる。つまり対話とは、論争も含みながら自己とは異なる他者からの視点を自らの中に取り入れながら、自己(の認識)をより開いていく過程と言える。

 子どもは、常に他者を自己の中に取り入れている。ただ、どのような他者をとり入れるのかで対話の質は変わってくる。そこに「学び」の社会性が存在する。
 共感的な他者、否定的な他者、強圧的な他者、支配的な他者・・・そういった他者を取り入れながら、心の中で対話をしているということを忘れてはならない。心の中は、まるでシンフォニーのように多重な対話で響きあっている。

○クリティカルシンキング

 「批判的思考」はそれ自体が批判的というのではなく、対話によって常に自己を変革しようとする志向性をもつ。「批判」とはそこに留まろうとする自己への批判である。他者との対話を通して常に自己を批判していく思考である。それは、新しい自己を見いだし、自己をより広い世界へ導くものとなる。逆に、新しい自己を見いださないような学びは陳腐なものと感じる。
 また、批判的とは否定的という意味ではない。そこには自己に対する絶対的な肯定があるからこそ批判的になれるということを忘れてはならない。

○ユーモア

 その場合、ユーモアは思考をより発展させる。学習を進めていると、往々にして学習者において自己の学習不足や劣等感を感じることが多くなる。そういう劣等感に打ちひしがれる状況をどう乗り越えていくか。それは辛い作業となるので学習者にとっても指導者にとってもユーモアは欠かせないものとなる。
 学習上の困難を覆い隠すのがユーモアではない。困難を明らかにしつつ劣等感を相対化するのが本当のユーモアなのだ。

「58、授業おもしろ問答集」


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